せめて名前がつかなければなければ良かった
ADHDの人間の傾向リストにかなり当てはまっていたけど、私はADHDではない。
すぐに自分が何かの病気だと思ってしまう。私が追い詰められないと何もできないのも、準備がとっくにすんでるのに遅刻するのも、親しい友人との関係を継続することができないのも、やらなければいけないことをためてしまうのも、溜めて溜めて溜めて遂には全てゼロにする以外の清算の仕方を知らないのも、全部全部、病気のせい、だったら良かったのに。
そうだったら良かった。これらが治らないのは「治すための努力」が足りないだけだってことになってたかもしれない。
でも現実はそうじゃない。私はただの怠惰と無頓着の塊にすぎない。食事や住環境に関心もなく、公には言えない趣味を持ち、恋愛は興味もなければ縁もなく、毎日公式アカウントからのメッセージだけが届くiPhoneを落ち、誇れるスキルもなく、実現するわけもない空想を抱え、たいそうなバックボーンがあるわけでもない、不安症をこじらせただけのただの大人になれない20歳の人間でしかない。
私は社会的人間としての能力がなく、かつそれを補填しようともしない、反省しない人間だ。
田舎に育ってしまった、女として生まれてしまった、美しくない容姿で生まれてしまった。
足りないことに気づいてなかった。
18歳の女の子はその事実の重大さを知らなかった。
彼女はただの普通の人間どころか、普通にも届かない人間だった。
両親から多くのものをもらったが、ただ消費するだけの人間だった。なにも返せない、それどころか負債を増長するだけの存在だ。辛い。
せめて気づかない鈍感さがあればよかった。気づかなければそれは認識されないことと同じだ。
認識されなければ名前なんてつかない。
名前がなければ名前がないことに苦しめられなかった。